今日は月1回の 田口先生の老子講義だった。
毎回本当に人生に開眼する (笑)
今日学んだことは2つ
1つは、人生や人間の本質は言葉で表現することが難しい。
*人生や人間の本質、そして万物の根源を老子は
「道」と言っています。
老子ふうにいうと
「『道』とはこういうものだ、と言った途端
もう『道』ではなくなる」と。
なんだか・・・・
意味が深過ぎて・・・
意味がわかんないけど
納得はする、私はそう感じます。
大事なこと、重要なことって
言葉じゃ言えなかったりしますもんね。
2つ目は
もっと意味が深く・・・
「天地に仁(愛情)というものはない。
万物をすうく
(すうく:神社にいる藁でできた犬の置物。
例れば正月の飾りのようなもの。役割を持って、
終わったら捨ててしまうもの)のように扱っている。
聖人にも仁(愛情)というものはない
民をすうくと思っている」と言っています。
これは、かなり意外でした。
天地、自然が「情」を持っていないのは
わかります。
それは自然災害なんかも
本当に無情にも多くの人を殺すことを
しますから。
しかし、聖人が愛情持たないってどういうこと?
ってすごく不思議に思いました。
しかも、民を置物(役割を果たすもの)と
思っているところが、なんで?って。
聖人だったら愛情持っているものでしょう、と。
しかし、先生の解釈を聞いていてわかったのが
「誰かに愛情をかけるということは
その人だけに愛情をかけるということで
えこひいきになる」
ということと
「もし、愛情をかけるのであれば
会う人すべてに愛情をかけなさい、
でもそれは不可能でしょう」
ということでした。
まぁ、それだけなら、私も反論の余地がありますが
でも、陰陽論でいうと「愛情」の「陰 かげ」の部分ってあるんですよ。
確かに・・・
愛情与えている方からすると
めちゃいい「愛情」を与えているんだけど
与えられている方からすると、はた迷惑な「愛情」
あるいは、その人を否定されているような「愛情」
を投げつけられているというか。。。
こういう感じです。
例えば親子でいうと
親:いい愛情 ⇆ 子供:迷惑な愛情
乱暴な言い方ですが、老子は
だったら「情」はない方がいいんじゃない?
って話。
冷たいというより、淡々としています。
何せ、水のようにあれ!って言っているわけだから。
でも、これはなかなか真実かなと
私も折に触れて「愛情」のかけ違いで
トラブっている親子とか
あるいは情があり過ぎて、
人から嫌われちゃう人とか・・(笑)
見てきているので。
「愛情」っていいものか、悪いものかって
わからないんですよね。
多分両面あるんでしょうけれども。。。
老子の思想は
「愛情」さえ手放す。
かと言って
もちろん「憎む」わけでもなく
「冷徹」になるわけでもなく
あえて目指すものでもなく
ひたすら
作為なく「無為」であれと・・・
ある意味
理想でありながら、でも
真に生身の人間のことを言っていて
真実なような気がします。
「道」とはそんなふうに
陰陽を併せ持つような
もの。
万物の根源ですから、
本当、いいとか悪いとかいうものではない。
今回の講義を受けて特にそう感じました。
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