今度
私が始めようとしている
「体感ワーク」は
ある極限状態を設定し、
その中で自分と向き合い、気づき
自己の変容を促(うなが)す
という自己啓発です。
学びを捨てて、体感せよ
そのスローガンは
「学びを捨てて、体感せよ」
なのですが、それはそうだなと思います。
学びの段階には
まず、
第1段階「知る」
第2段階「わかる」
第3段階「できる」
第4段階「習慣化する」
第5段階「教える」
がありますが、
第2段階「わかる」
と
第3段階「できる」
との溝って大きいと思います。
そこは、本当に「腑に落ちない」と
なかなか「できる」つまり
「身につく」までいかないと思うのです。
だからこそ
「腑に落ちる」ように
心底感じて
「体感せよ」ってことになるわけです。
ただ、ここで忘れてはならないのが
学んでもいないのに
つまり、捨てるほどの「学び」もないくせに
「学びを捨てる」ことは
できないってこと。
いろいろ学んでみて
「学びを捨てて、体感せよ」
の真意がわかると思うのです。
学びて、ときとしてこれを習う、また悦ばしからずや
「論語」の冒頭に
君子曰く
学びて、ときとしてこれを習う、
また悦ばしからずや
という、有名な一文があります。
この解釈は
「学んで、さらに反復演習していくことは
なんと面白く愉快なことでしょう。」
みたいなことなのですが、
私が先の
「学びを捨て、体感せよ」
を踏まえて、自分なりに解釈すると
「たくさん学んで、そして学びを捨てて、
実際やってみて
体感したら
なんと面白く、愉快なことでしょう」
こんなふうにします。
どうでしょうか?
実際、
学びの段階の
第2段階「わかる」(学ぶ)
から
第3段階「できる」
(腑に落ちて、体感する)ようになった時の
悦びは本当に大きなものです。
だから、そんな解釈をしてみました。
ちなみに、
ここで「喜ぶ」を「悦ぶ」と
していますが
「悦ぶ」は
一人悦(えつ)に入る
という意味の「よろこぶ」だそうです。
「喜ぶ」とはあえて違う
漢字を使っているそうです。
そう、まるで大事な宝物を
一人で見ていて
ニンマリ笑ったり(少し怪しいですが・・・)
ジーンと感動してみたり
もう一度、取り出して思い出してみたり
「一人悦に入る」とはそんな行為ですよね。
本当に「できる」(体感する)ようになった時
確かにそんな「悦び」があり、感動があります。
「朋(とも)遠方より来る在り、また楽しからずや」
さらに加えると
「論語」のこの文の後には
「朋(とも)遠方より来る在り、また楽しからずや」
とあります。
通常の解釈は
「友達が遠くから
自分に会いにやってきてくれる、
なんと嬉しいことではないか。」
と文そのままなの意味なのですが
私は、こんなふうに意訳します。
「朋 とも」とは
「これから友達になる人、これから出会う人」
「遠方」とは
「未知の世界、遠い世界」
と解釈し
つまり
「未知の世界からやってくる、未知の人との
出会いはなんと嬉しいことか」
それは
「バンバン出会いなさい。人生豊かになるから」
と言えるのではないでしょうか。
結局
これも経験し、体感してみることと
同じではないでしょうか。
刺激を受けたり、
成長させてもらったりすることは
人との出会いによって
人から学ぶことによって
できますから。
そして、
時には人と出会うことで
摩擦や対立も起きたり
すごく
傷ついたりするわけですが
そこから
人間関係ってやつを
学ぶわけです。
そして、それこそが人生の
「学び」になるわけです。
「体感する」ことは
決して、楽しいばかりではない、
いえ、むしろキツイことが
多いかもしれません。
しかし、
本当の「学び」と「悦び」は
「心と体で感じる」ことに
あるかと思います。
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