今、田口佳史先生の中国古典「大学」と「老子」を
学んでいます。
漢文を理解するのは英語を理解するより
難しい。
だから、田口先生の解釈がなくてはならない。
田口先生の解釈は、もうほとんど
国宝級でしょう。
なんというか
人生の酸いも甘いも、というレベルではなく
本当に苦い、苦い汁を吸った経験があるのだろう、と
思わずになはいられない、ものすごく含蓄(がんちく)のある
言葉が聞ける。
例えば「大学」の巻頭の文で
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむ在り。
至善に止まるに在り」
というのがあります。
この解釈は
「大いなる学びは、明徳を明らかにすることにあります。
そして民との関係を親しくすることにあります。善に至って
そこに止まることにあります」というものです。
では「明徳を明らかにする」とは何か?
それは
「徳を積むことです」
といったように、本当に漢字、熟語を深く掘り下げていき
その一つ一つの解釈をしていってくれます。
漢字1つにそれくらいの意味があるのだから
古典の漢文は、膨大な知恵の宝庫、といえます。
それで、それだけの知恵を学んだら、実践しないと
意味がない。
ただ、内容が抽象的すぎて
どう行動をしたらよいかわかりづらい。
そこで、「実践するには、どうしたらよいのでしょうか?」
と先生に質問したところ
「100回読みなさい」
とのことでした。
確かに、中国古典の学びにおいては
「素読(そどく)」がとても重要なんですね。
田口先生の講座では
必ず皆で声を合わせて、文章を
「素読」をします。
これは何のためにするのか?
それは中国古典の文章が
自分の地肉になるように、
何度も繰り返して読むのです。
最近も「音読」の効果、特に脳に与える
影響なんかも取り上げられてきていますよね。
中国古典においても、同じ・・・というか
この「大学」なんて、江戸時代の寺子屋で小学生くらいの
子達が「素読」していたというんですから、
「音読」よりずっと、ずっと前からそんなことやっていたんです。
本当にすごいなー。
それで、思ったのが、結局抽象的なことや難しいことを
学んでも、それらを腑に落ちるほど、ちゃんと自分のものとして
身につけるためには、何事も身体感覚として落としていくことが不可欠。
このことに気づかせてくれたのが、中国古典、東洋思想です。
最後に 伊與田覺先生の「大学を素読する」
という、「大学」の内容をまさにそのまま
筆で書いた本があるのですが、その帯の言葉が素晴らしいので
最後に紹介します。
「古典を学ぶ上に於いて大切なことは「素読」です。
素読は天命に通ずる先覚の書を
自分の目と口と耳とそして皮膚を同時に働かせて
吸収するのです。
これを読書百編で繰り返し繰り返し
続けることによって
自らの自分の血となり肉となるのです。
それが時にあって外に
滲み出ると風韻となり、
そういう人格を
風格ともいうのです。」
(「大学」を素読する より)
あなたの「気づき」や「成長」にお役立てできれば幸いです!
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